カール=ハインツ・ルンメニゲKarl-Heinz Rummenigge、1955年9月25日 - )は、ドイツ出身の元サッカー選手。元西ドイツ代表。ポジションはFW。主にブンデスリーガのFCバイエルン・ミュンヘンでプレーした。1980年、1981年と2度のバロンドールを受賞し、その著しい活躍から『ミスターヨーロッパ』とも称えられた。引退後は、バイエルン・ミュンヘンの重職を歴任している。弟のミヒャエル・ルンメニゲはJリーグ、浦和レッズでもプレーした。

経歴

クラブ

1955年、ノルトライン=ヴェストファーレン州リップシュタットに生まれた。1963年、地元のボルシア・リップシュタットでサッカーを始めた。子供の頃のアイドルはサンドロ・マッツォーラだった。10代の頃、ここでの活躍はドイツ国内で知れ渡るようになっていた。

18歳の頃にはバイエルン・ミュンヘン、シャルケ04、ボルシア・ドルトムントなど、ブンデスリーガの14チームからオファーを受けた。一番最初のオファーはバイエルンであったが、周囲の人間たちからは、バイエルンはいい選手が揃っているので、加入しても出場出来ないだろうと言われ、ボルシア・リップシュタットの監督に相談したところ、バイエルンに行くことを勧められた。1974-75シーズン、デットマール・クラマーの勧誘によりバイエルン・ミュンヘンに入団。 ブンデスリーガへのデビューは、1974年8月24日のオッフェンバッハ戦。9月7日、ポカールのVfBシュトゥットガルト戦で公式戦でのプロ初ゴールを決めた。リーグ第4節の1.FCケルン戦でブンデスリーガ初ゴールを決めた。このシーズンは、リーグ戦の25試合に出場、4得点。また、同シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは、4試合に出場し、無得点であったが、大会初優勝を果たした。

1975-76シーズンからレギュラーポジションを掴み、UEFAチャンピオンズカップ連覇。インターコンチネンタルカップでも優勝。このシーズンの公式戦50試合に出場、13得点を決めた。10月6日ウェールズ戦で西ドイツ代表デビューを飾った。

1976-77シーズン、インターコンチネンタルカップを連破、このシーズンの公式戦42試合で15得点を挙げた。1977-78シーズン、1977年11月にクラマー監督は解任され、チームはリーグ12位、UEFAカップもベスト16止まりであった。個人としては、公式戦38試合で14得点を決めた。 1979-80シーズン、リーグ戦では第34節のアイントラハト・ブラウンシュヴァイク戦でのハットトリックを含む、トータルで26ゴールを決め、初のブンデスリーガ得点王を獲得した。

1980-81シーズン、リーグ戦では第12節の1.FCニュルンベルク戦、第28節のMSVデュースブルク戦、第33節のボルシア・メンヒェングラートバッハ戦と3度のハットトリックを含む、29ゴールを決め、2度目のブンデスリーガ得点王を獲得した。また、12月にはバロンドール受賞。

1981-82シーズン、2年連続でバロンドール受賞。ブンデスリーガ、DFBポカールの二冠達成した。ポカール決勝の1.FCニュルンベルク戦では1ゴール1アシストを決めて優勝に貢献した。このシーズン、チャンピオンズカップでは、決勝でアストンヴィラに敗れた。1982-83シーズン、公式戦42試合で21得点を決めた。

1983-84シーズン、リーグ戦では第7節のSVヴァルトホーフ・マンハイム戦でハットトリックを、第21節のオッフェンバッハ戦では4ゴールを挙げ、第22節のブレーメン戦では弟のミヒャエルと共にゴールを決めるなど、トータルで26ゴールを決め、ブンデスリーガで3度目の得点王を獲得。ブンデスリーガ、DFBポカール二冠を達成。このシーズンの公式戦42試合で32得点を記録した。このシーズンでバイエルンを退団、以降母国のクラブでプレーすることは無かった。ブンデスリーガでは通算310試合162ゴール、ポカールでは42試合25ゴールの成績を残した。

1984-85シーズン、インテル・ミラノからオファーを受け、8月に、600万ユーロでイタリアのインテルへ移籍。この金額は当時、ディエゴ・マラドーナに次いで、史上2番目に高額な移籍金であった。ここではアルトヴェリ、リアム・ブレイディとチームの攻撃を担った。8月22日のコッパ・イタリア、S.P.A.L.戦で移籍後初ゴールを挙げた。セリエA第8節のユヴェントスとのイタリアダービーでセリエA初ゴールを含む2ゴールを挙げた。移籍1年目は、リーグ戦26試合で8得点に終わったが、コッパ・イタリアで5得点、UEFAカップでの5得点を決めた。UEFAカップでは準決勝まで進んだが、レアル・マドリードに敗れた。2シーズン目にはリーグ戦では24試合で13ゴール、年間トータルでは19ゴールを挙げたが、3シーズン目はアキレス腱の怪我に悩まされ、年間トータルで僅か24試合6ゴールに終わった。インテルからは、契約延長を提示されず、チームを去ることとなった。

1987年、スイスのセルヴェットFCへ移籍し、2シーズン活躍した後の1989年に、33歳で現役を引退。

代表

西ドイツ代表では、1976年10月6日ウェールズ戦でデビュー。1977年10月8日のイタリア戦で代表初ゴールを挙げた。

1978年、ワールドカップアルゼンチン大会では1次リーグのメキシコ戦でワールドカップ初出場を果たし、2ゴールを決め、2次リーグのオーストリア戦でも1ゴールを決めたが、2次リーグで敗退し、準決勝には進出出来ず、6試合3得点

1980年のUEFA欧州選手権では決勝のベルギー戦でホルスト・ルベッシュの決勝ゴールをアシストして優勝に貢献した。

ワールドカップスペイン大会では1次リーグのアルジェリア戦で1ゴール、チリ戦ではハットトリックを決め、準決勝のフランス戦の延長戦でもゴールを決め、決勝進出したが、決勝のイタリア戦ではゴールを決められず、チームも敗れて準優勝に終わった。

1986年、ワールドカップメキシコ大会決勝のアルゼンチン戦でもゴールを決めたが、2-3と敗れた。大会後代表を引退、同試合が代表最後の出場であった。

1982年、1986年大会とも怪我を抱えながらの出場ながら、3大会で計19試合に出場して9ゴールを挙げ、2度決勝に進出したが、どちらの大会とも敗れ準優勝に終わった。代表通算では95試合45ゴールの成績を残した。

引退後

1990年からドイツ公共放送連盟(ARD)の解説者を務めた。翌1991年、バイエルン・ミュンヘンに副会長として復帰、2002年、フランツ・ベッケンバウアーの後任として同クラブの最高経営責任者(CEO)に就任。2021年6月をもって勇退した。

2004年に、ペレが選ぶ偉大なサッカー選手100人(FIFA100)に選出される。

エピソード

  • 1993年から1995年に浦和レッドダイヤモンズに所属していたミヒャエル・ルンメニゲは実弟にあたる。
  • 自身が代表取締役をつとめるバイエルン・ミュンヘンは、2006年に浦和レッズとパートナーシップを締結、同年7月31日には埼玉スタジアムで行われた両チームの親善試合に、バイエルンOBチームの一員として試合に参加して2ゴールを挙げる活躍を見せた。
  • まだ無名だった頃、1975年1月にバイエルンミュンヘンの一員として来日、1月7日の日本代表との試合では開始1分でゴールを決めている。

個人成績

クラブ

  • 1.^ DFBポカール、コッパ・イタリア、スイスカップ
  • 2.^ ヨーロピアン・カップ、UEFAカップ、UEFAカップウィナーズカップ
  • 3.^ インターコンチネンタルカップ、UEFAスーパーカップ.

代表

  • 1976-1986 西ドイツ代表 95試合45得点
    • FIFAワールドカップ出場 3回(1978アルゼンチン大会、1982スペイン大会、1986メキシコ大会)
    • UEFA欧州選手権出場 2回(1980イタリア大会、1984フランス大会)

タイトル

クラブ

  • ブンデスリーガ : 1979–80、1980–81
  • ヨーロピアン・カップ : 1975、1976
  • インターコンチネンタルカップ : 1976

代表

  • 欧州選手権 : 1980

個人

  • 欧州年間最優秀選手 2回(1980、1981)
  • ドイツ年間最優秀選手賞 2回(1980、1981)
  • ブンデスリーガ得点王 3回(1980、1981、1984)
  • スイスリーグ得点王 1回(1989)
  • ワールドカップスペイン大会ブロンズボール賞 1回(1982)

国際サッカー歴史統計連盟

  • 20世紀世界最優秀選手 35位 (国際サッカー歴史統計連盟選出 1999)
  • 20世紀の偉大なサッカー選手100人 35位(ワールドサッカー誌選出 1999)

脚注

外部リンク

  • Career stats at fussballdaten.de(ドイツ語)

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